代表紹介

橋本 真典

プロフィール

(揺籃期)

名古屋市立城北病院(現西部医療センター)で産まれ死にかける。 ディスレクシア(失読症、発達性読字障害)のため本や漫画は読めず音楽に執着していった。 名古屋市立宮前小学校で5、6年で2年連続で算数の総合得点が1位。6年運動会の器械体操で真ん中のピラミッドの一番上を務める。選挙で代表委員に選ばれ任期まで務める。 地元の中学の程度が低いため中学受験により尾張名古屋地区で学力3位、共学では1位の国立愛知教育大学附属名古屋中学校に合格し進学。 卓球部に入り卓球を始めると素質があると見込まれ、1年3学期でトーナメント戦優勝、2年で附中カップ初代チャンピオン、トロフィーに名前が刻まれ部長に昇進、任期まで部長を務める。将棋クラブでトーナメント戦初代優勝。 高校1年で学年順位1位と10位以内の成績を10回保ち、井の中の蛙になることを恐れ2年の始業式の直後「埋没を危惧」との理由を提出し退学し独学で大検取得。 テレビゲームを持ったことがない。16才ディスレクシアが突然治る。17才ギターに熱くなる。 音大の受験を将来を現実的に考え断念し国立名古屋工業大学へ進学、卓球部顧問からスカウトですと入部を迫られる。19才ピアノに熱くなる。 ギタリスト兼ピアニストで弟子がいた。打ち込みによる作曲のためパソコンを導入、コード理論を学びシンセザイザーなど機材に60万円使う。 学業では電器磁気学、積分しまくる電磁波工学が得意であり、難解と言われるらしい電器磁気学がそうでもなかったので、それらが受験科目にある大学院受験への挑戦を可能だと考えるようになる。 自分が分からない場合は読んでいる本が悪い、相手が悪いだけであるという発想が確立する。 社会勉強のためダイエー(2ケ月)→ナゴヤドーム(3ケ月その後随時)→ロッテリア(6ケ月)→大須第一アメ横マルゼンムセンでパソコンの販売員(1年)のアルバイト。 パソコンが世の中に登場し詳しくなろうと思い、店員をやったことでパソコンのハードウェアのことはほとんど分かった。

(覚醒期)

大学院進学を志し、午前中英語2時間、午後から電器磁気学、電磁波工学、電気回路、計算機基礎を合わせて4時間の過酷な受験で倍率1.5倍のため、 最後の半年は大学の図書館で暮らし猛烈な受験勉強をした。その結果、授業料全額免除かつ無利子の奨学金月84,000円の受給資格をとり国立名古屋工業大学大学院に進学。 電気情報工学専攻で、情報通信革命の時代と言われていたため学内で花形の情報通信分野の研究室へ所属する権利を受験の点数により獲得。 毎度毎度楽に勝てる勝負はなく、今回も厳しい闘いだったが電磁波工学で点を稼いだことで勝った。学校に通うと通帳にお金が増えていった。 大学院に入った直後、自分より頭の切れる人はいないということが直感的に分かった。 研究室では夜10時まで帰らせてくれないため時間を持て余した同僚と後輩にパソコンの使い方とプログラミング、Linuxを付きっ切りで教わる。 田坂研究室石橋研究室と所属研究室を移りながら、 通信ネットワークの研究で世界で1位とも言われることのあるスタンフォード大学が出したいい加減な論文を正し、 彼らより優れた手法を示して電子情報通信学会にて名古屋大学→早稲田大学→大阪大学でそれぞれ論文を発表する。 マサチューセッツ工科大学、カリフォルニア大学、オタワ大学からの論文をテリトリーにして分析し、自分の研究が世界で通用する可能性があることに気づく。 名古屋大学で論文発表直後、おそらく気合を入れて発表したため名古屋大学の助手から「当然ドクター行かれますよね」と言うようにドクターを薦められ大学院博士後期の受験に至る。 中学受験→高校受験→大学受験→大学院博士前期受験→大学院博士後期受験とフルに受験をすることになり、 塾に行ったことはないが高額な授業料を払って塾に行っている人たちと勝負してきた。ずっと勝負の世界に身を置き学生としてできる学問をやり切った。 大阪大学での学会発表で京都大学の教授と質疑応答をしているうちに、どのレベルのことなら一流の科学技術の世界で通用するかの感覚をつかんむ。 この感覚が後に新しいことを世の中に発表するときの指標となった。 自分の論文が学術雑誌ジャーナルに掲載されることになっていた。 長年の勉強の成果なのか学会での発表を繰り返すうちに自分の能力がレベルの高い世界でも通用することを知り自信を持つことになった。 私がやろうとすることに教授は毎度毎度「そんなことができるのか?」と言ってきた。どっちが難しいかを聞いてあえて難しい課題を選択していた。 志が高く無難にこなして卒業しようという気はさらさらなかった。 後輩たちの就職説明会で「君たちの先輩にこんな優秀な人がいました」と私を紹介していたり、 私が読んでいる技術書を教授は私に習って自分で買って勉強していて「僕は君を評価している」だとか学内では各教授の間で評判になっており、 飛ぶ鳥を落とす勢いだった。 周りがお前ならノーベル賞を取れる能力があるとまで言い出していた。研究者として大学に残りゆくゆくは教授になってあげようかと考えた。 しかし、ひとたび能力があると見込まれると、論文は必ず共著になるので教授たちは私の能力を使って自身の業績を上げようと考えるようだった。 教授の側近として働き、教授の業績を上げることに努めた結果、 結果に誤りや不正、ねつ造があることが分かっていても、1つの研究を複数の論文に小出しにして論文の数を増やし業績を上げようとしている大学教授の下では価値はなかった。 教授と雇用契約を結んでいたが、予算がないと言いだし未だに賃金未払いのままである。 架空請求で学校からお金を引き出したりと教授の問題は他にも沢山あり、目の当たりにしてきたため曲がったことをとことん嫌うようになり、やたら正義感の強い人間になっていった。 要するに京大ぐらい行ってないとレベルの低い人たちがレベルの低い研究をしているだけで徒弟制度の効果もない。 民間企業への就職を考えDENSOの学校推薦枠を取得し会社に出向いたが、 末端の社員が金髪だったことや、交通費支給と書かれているのに払われない態度から協調することはできなかった。 いづれにしろサラリーマンでは自分の能力を最大限に発揮できないと感じた。 またサラリーマンでは普通の人になるだけで満足できないこと、 特定の会社のみが私の能力の恩恵を受けることになってしまうことに気づき学校推薦を辞退した。 結局どこへ行っても能力を他人に利用され、主導権を他人に握られることが分かった。 人生の中で自分の才能を発揮できる時期は短い。この時期に自分の能力を最も効率よく成果につなげ多くの人、特に弱い立場の人の利益となることをしなければならないと感じていたと同時に自分自身も多くの利益を得ようとしていた。 最もベストな選択を時間ぎりぎりまで検討する性格だった。 妥協する理由もなかった。 安定した収入と引き換えに自分の能力を発揮せずに人生を生きている人を見て、社会で自分の能力を最大限使いたいと思っていた。 教授推薦によって東京電力、NECを薦められるものの断る。手の届くところに来てしまったものには魅力はなかった。 ブラザー工業から料亭で接待を受け入社を迫られるが、中国かマレーシアに飛ばされるのでスルーした。自分主導で1人でやっていくしかないことが分かった。

(創生期)

大学院在籍中に研究の傍ら、依然音楽にも打ち込み60万円機材を買った店からもらったポスターを弟子に薦められヤフオクに売りに出したら60万になった。 それをきっかけに発展させ月15万の安定収入が得られていた。 人から雇われてではなく自力で稼ぐことができるということを知ったことが起業へと向かわせた。 サラリーマンになるしかないという認識の社会で、自分で何かをやって収入にまでたどり着くという経験はそうそうできることではない貴重なものだった。 ネット通販の可能性を確信し、ネット通販業界への道を独自で進むことに決める。結局進路とは、うまく導かれていくところへ行くしかないのだ。 ちょうどインターネットADSL常時接続サービスが都市から順に始まり、名古屋も早い段階で始まった。 それを利用して自宅サーバーを構築し世界からアクセスできる環境を自力で作った。 この頃、ネット通販といえば楽天だけだった。楽天の一人勝ちにより出店料も高いとき、 日本のネット通販の発展のため誰でも気軽にネットショップが持てるようなサービスの必要性を感じ「買場ショッピングモール」の開発、運営し、破格の値段で出店できるサービスを始める。 「買場」とは株用語らしいのだが、その時そんなことも知らずに、ある朝目が覚めた瞬間に「買場」という言葉が出てきた。お告げがあったようだった。 長年の受験戦争を終え闘争心を持て余しており、自分の能力なら楽天を相手に1人でも戦えると信じ、楽天会長を標的にしていた。 会社設立(資本金1円)により有限会社みらいネットサーブ代表取締役社長となる。通常起業して事業をやろうとすると資金がかかり借金するのが当たり前だが、 ネットの世界は技術だけでお金を一切使わなくても可能であり、私ができる唯一の道だった。 「買場ショッピングモール」でパソコンと携帯が連動したネットショップシステムを他社に先駆けて、おそらく日本初で提供を開始したことで、 中部経済新聞に大々的に掲載され話題を集める(下部に掲載)。 その直後、全国発売の雑誌に載せたい、無料ですとの連絡があり、許可をしたらオススメサイトのショッピング部門で第3位と評され掲載されていた。 発売日には書店とコンビニで発売されていることを自分も確認した。自分の作ったサイトが雑誌に載せてもらえるとは幸運だった。 「買場ショッピングモール」は好評となり、企業としての信用も高まっていき、私自身が起業家として認められていった。

(確立期)

セシールよりアフィリエイト商品リンクで出店したいとの誘いがあり、 セシールが契約しているアフィリエイトASPリンクシェアと提携する。 バナー広告をブログやサイトに貼ることが主流のアフィリエイトでこのとき商品リンクを提供している企業はセシールとセコムの食だけであった。 ショッピングモールをやっているので商品リストがもっと多く欲しかった。 会社を設立し企業として実績を積んできたこと、また大学院でインターネットを研究し技術的にも専門家であることを前面に出して、 マルイ、ニッセン、ショップチャンネル、JAL、ANA、ジャパネットたかた、大丸、高島屋など大手企業と交渉に当たり、 商品リストを貰えることになった。各企業はそれで売れるのなら橋本さんの言うとおりにするという態度だった。 いくら大企業であってもアフィリエイトを扱っている部署の人は数人であり、売れればその部署の業績が上がり助かるのである。 後に役職が上がったとの感謝の報告も受けた。 商品リンクのリストを持っているのがほとんど自分だけあり、 プログラミングをやるアフィリエイターなどおらずライバル不在で載せるだけで売れていた。月400万円ぐらい売り上げていた。 リンクシェアでトップクラスのアフィリエイターのみ入れるリンクシェアクラブに入れてもらい、座談会にもよく出席した。 呼ばれるのはほとんどが国立大学の大学院出身の人だった。私も学歴で人から信用を得ていることが分かった。 トップの成績の人が月2000万円売っていてて、私はその中では末端だった。 私も一般の人には「カリスマアフィリエイターの方です」、「トップの方です」と紹介されていた。 大阪での座談会でプログラミングをしない人でも商品リンクアフィリエイトで収入を得られるように、規約には違反しているものの、 ショッピングモールを丸ごと自分の収入源とできる特殊なシステムを持った「買場ショッピングモール2.0」の構想があり、 やってもいいかと問い合わせたら簡単に許可がおり製作し公開した。 六本木ヒルズや帝国ホテルでの立食パーティーに5年連続招待された。IT業界で知名度を上げていった。

(全盛期)

商品リンクアフィリエイトの可能性を最大化するために販売網を拡大すると販売額も急激に拡大していった。 月収が100万円を超えた時から沖縄のリゾートマンションを事務所としていた。 沖縄と名古屋を車で往復3回、フェリーで90万円も交通費に使ったが、半年で1000万円稼いでいた。 沖縄のホテルで食事をしているとき、日本で勝ったと思った。 私はこれまで何度も勝った経験があった。それは必ず自分の勝ちパターンに持ち込み、ねばってねばってねばったときだった。 その経験に従った。 プログラミングというものはすぐに壁にぶち当たる。100回壁にぶち当たってきたがその壁を何とかして突破してきた。 どこまで突破できるかが実力の差となる。 長年の勉強は問題を解決する訓練になっていて一つの学問の成果だった。 「買場ショッピングモール2.0」もオープンから3年後、軌道に乗り安定した物流を生み、当方としても純利益が800万円に達していた。 「買場ショッピングモール2.0」がリンクシェア主催の開発コンテストに応募してくれと誘われ、 六本木ヒルズグランドハイアット東京によばれ銀賞受賞し表彰式にスクリーンで300人の前で紹介された。 リンクシェアのアメリカの親会社を楽天が買収したためライバルにしていた楽天会長も同席しており、私と正面で向かい合って3mの距離で乾杯することとなった。 リンクシェア自身が作った規約に違反したシステムに賞を出すという異例の事態だった。それほど凄いということだった。 その後、リンクシェア以外のASPと提携のある各大手ECサイト運営企業へもアフィリエイトで全商品のリストを誰でも利用できるように公開するように働きかけ、 商品リンクアフィリエイトを日本独自で普及させることに貢献した。楽天も出店費を下げたり商品情報を全て公開するに至った。私の狙い通りだった。 多くの人にとってのビジネスの可能性が広がることに私の活動が一翼を担っていれば幸いである。 その後、日本の全ての通販商品はアフィリエイトとして誰でも代わりに売って利益を得られる仕組みが定着していった。 私が登場しなくてもそうなったかもしれないがそれは分からない。少なくとも自分の行動が時流に沿っていたことは確かだった。 3年ぐらい日本で上位のアフィリエイターであったため、 実績による高まった発言権によって各企業への商品リンクの公開の要望やその他のイレギュラーな要望も次々と認められていった。 私の要望は何でも認められるようだった。まるで私の天下だった。その勢いでこの世界を変えてやるとの意気込みでシステムを次々と発表した。 これが学問の成果なのかプログラミングをしているときは神が降りてくる感覚になり、どういうものを作ればいいか勝手に導かれていく。 この時期に私のシステムによって約12億円の物流を生んでいた。アフィリエイト最高月間販売額6000万円。 アフィリエイトでの収入は4500万円程度であるが、私は皆さんの儲けのおこぼれを貰っているだけである。 人から感謝されてもらっている収入なので堂々といえるのです。 六本木では天才プログラマーなどと言われていた。 この時期も人生で5回目の飛ぶ鳥を落とす勢いとなっていた。

私のこれまでの行動は1つの理念をもとにしていた。誰でも安くネット通販を始められるように、誰でも収入をあげられるように、 企業の商品情報を誰でも活用できるようにというに、 つまり新しい物流システムであるネット通販から生まれる利益は商売していない人も含めて、なるべく多くの人のものでなければならないという理念に基づき活動したことで、 同調する人を得て動いてもらうことができ、思惑以上の展開が生まれた。 単独でやっていても、適切な理念によって他人に動いてもらう流れを作ることができた。 これは大学院時代にせっせと論文を作っていたのは卒業して路頭に迷いたくないためで、そこに縛られていただけであり、 教授に動かされていたけどそれは本当に人の心を動かしているわけではなく立場による権限で動かしているということに気が付き反面教師とできたからです。 さらに正義感を強く持つようになったことから、適切な理念を掲げることになった。 もっとも大学院まで行った経歴で無条件に人から信頼されているので有利なのである。 時の流れを読み、適切な理念に従っていくことが人の心を動かし物事が進展していくことを学んだ。

(衰退期)

開発したネット通販システムは世界のネット通販でも適用できるはずであると考え、世界進出への準備を進めていたものの、 スマホへの急激な移行など日本の市場の激変への対応に追われ世界進出はどうでもよくなっていた。 「買場ショッピングモール2.0」をさらに発展させた「買場ショッピングコミュニティ」もいくつかの賞をもらったが、 世の中をひっくり返しまくるほどの強い刺激がないと自分が満足できなくなっていた。つまりマンネリである。 これまでの最高月収が200万円だったので300万円になることをしないと意味がないと思っていて、さらに新しいシステムを考案して公開していた。 半年でこのシステムの月収が60万円を超えてこのままいくかと思ったが、失速した。 これまで自分の収入を目的に仕事をしたことはなかった。それでは志が低く動機が弱くて面白くないからである。 また、楽天をライバルだと思って挑んできたが、楽天会長と会って以降ライバルを失って退屈していた。 標的を誰にしたらいいか定まらず戦意喪失していた。 プログラミングによってシステムを作るということは作家のような芸術家のようなもので、同じようなものを作り続けることは苦痛だった。 常に新しくこれまでより画期的であっと驚くものでなければ世に出す価値も見いだせない。 そんななかでも改めて自分の能力は無限である、いくらでも斬新なシステムを創造することができることに気づいた。 いざとなるとアイデアが次から次へとでてきて疲弊していた自分を救った。このとき初めて自分を天才だと思った。

(再生期)

学生のときよりやっていたネットオークション物品販売は安定しており純利益は1500万円になっていた。 雇用契約によって他人に自分の人生の時間を差し出すことなく生きてきたことは誇りだった。 コネも何もないところからお金を使わずにここまで展開できたことも誇りだった。 沖縄にいたことで海の近くに住みたいと思うようになっていた。 インターネットの利点「インターネット回線があれば世界のどこにいても仕事ができる」というように、 インターネットは場所に依存しないことから、住みたい場所を選んで沖縄(1年)→内海→諏訪→湘南(4年)に住んだ。 海外のコンドミニアムでのロングステイも計画していたが、テロの影響で頓挫した。 商品リンクアフィリエイトを活用してできることを可能な限り追求してシステムを開発しています。 日本の雇用情勢は8割がブラック企業ではないかと言われるような激務な正社員と低賃金の非正規社員に分かれているようです。 アフィリエイトのように自力で収入が上げられれば、もっと人々は豊かになれる。 適切な理念と、緻密な戦略と、戦うべき相手を見つけ、多くの人に特に弱い立場の人にメリットをもたらすシステムを開発しています。 それにしても、プログラミングをしているときはオアシスだった。製作途中でどんどんいいアイデアが浮かんできて、 当初の予定をはるかに超えた面白いものができていく。神がおりてくるのである。

これは日本のネット通販をオープンなものにしようと尽力を注ぎ、商品リンクアフィリエイトを切り開いた一人の男の物語である。



奨学金返済完了。 座右の銘:棚から牡丹餅
視力:いまだに1.5、血液型B型、しし座、へび年。 愛車VOXY TRANS-X。趣味はピアノ、水泳、バカンス、ロングステイ。

[主な受賞歴]

2005年 大丸おせち販売コンテスト全国2位
2006年 大丸おせち販売コンテスト全国3位
2009年 Yahoo!オークション主催のサイト制作コンテストで入選、大丸おせち販売コンテスト全国5位
2010年 LinkShare Awards 2009 BentBox 開発コンテストにて銀賞受賞(六本木ヒルズグランドハイアット東京)
2010年 楽天トラベル アプリ開発コンテストにて最優秀賞ノミネート
2010月 リンクシェアBentBox開発アプリコンテスト受賞
2013年 リンクシェア主催「ファッション特集 売上実績・成長コンテスト」にて「売上実績賞3位」を受賞

[居住地]

~2007年7月 名古屋市北区上飯田在住。
2007年7~9月、名古屋市北区尾上に在住。
2008年1~3月、沖縄県名護市為又に在住。
2008年3月~2009年3月、沖縄県本部町山川(沖縄ハウスリゾート、ココナッツハイツ)に在住
(生活の範囲:名護市、本部町、エメラルドビーチ、備瀬、今帰仁村、ウッパマビーチ、海洋博公園、美ら海水族館)。
2010年3~5月、名古屋市北区平安に在住。
2010年6月~、名古屋市北区喜惣治に在住。
2011年7~9月、愛知県南知多町内海(真栄リゾートリーブル内海)に在住
(生活の範囲:内海、千鳥ヶ浜、豊浜、河和)。
2013年7~8月、長野県諏訪市豊田に在住(生活の範囲:諏訪、岡谷)。
2013年8~9月、神奈川県茅ヶ崎市柳島に在住。
2013年11月~2014年2月、神奈川県茅ヶ崎市浜見平に在住。
2014年2月~2017年9月、神奈川県藤沢市辻堂西海岸(辻堂団地)に在住。
(生活の範囲:平塚、茅ヶ崎、サザンビーチ茅ヶ崎、辻堂駅周辺、辻堂海岸、辻堂海浜公園、辻堂ジャンボプール、鵠沼海岸、片瀬海岸東浜西浜、江の島、藤沢駅周辺、鎌倉、鶴岡八幡宮、横浜、横須賀)。
2017年9月~、名古屋市北区西味鋺に在住。
2018年10月~、愛知県豊川市に別宅営業所設置。
(生活の範囲:新城市、豊川市、豊橋市、ラグーナテンボス、吉良ワイキキビーチ)

[これまで住んだ家の数]

名古屋市北区:6戸
神奈川県藤沢市:2戸
神奈川県茅ヶ崎市:2戸
愛知県南知多町:1戸
愛知県豊川市:1戸
長野県諏訪市:1戸
沖縄県名護市:1戸
沖縄県本部町:1戸
計:15戸

欠陥住宅、手抜き工事、住宅の問題点、風水に詳しくなる。不動産業開業。

メディア掲載

2004年10月11日 中部経済新聞 名古屋経済に「買場」が掲載される



2004年12月5日 ソフトバンク誌『iモード情報サイト2000 vol.25』 に掲載され、
「買場ショッピングモール」がオススメサイトのショッピング部門で第3位にランクインする。



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